「二条先生。少しよろしいですか」
図書準備室を訪ねてきたのは、京香の従姉妹、安喜宮鈴華であった。
鈴華は二学年に所属し、京香の受け持つクラスの生徒でもある。
「どうしたの、安喜宮さん」
学園では、たとえ親しい間であっても教師と生徒である。互いにその境界を踏み越えるようなことはない。
むしろ鈴華は普段京香を避けているのではないかと思われるほどの態度をとっていた。それが彼女なりの節度なのだろう。
その鈴華が、京香を訪ねてきたのである。
「これを万引きするようにいわれたクラスメートがいたんです」
そういって鈴華が京香の前に置いたのは、ピンクローターとバイブレーターであった。
「これを……うん……」
頷きながら、京香は手にとってローターを眺めてみた。まるで見たことのない物だ。
電源があってそれを入れるとケーブルの先にあるプラスチックがブルブルと音を立てて震えだした。
小型の指圧機なのだろうか?
ふと顔を上げてみると、鈴華が顔を赤らめていた。
「あんまり熱心にいじらないでください! 京香さん!」
「?」
京香には鈴華が語気を荒げる理由がわからない。
「京香さん、これがなんだかわかっていますか?」
「ひょっとすると、危険な物なの?」
「大人のおもちゃですよ」
「おもちゃなんだ。安喜宮さん、これ、どうやって遊ぶの?」
「――本気でいってます?」
「ええ。初めて見る物だから」
「これは自慰やセックスの時に使うものです」
鈴華の言葉に、京香は慌ててローターの電源を切って机上に戻した。
「り、鈴華ちゃん。どうしてこんなものを、あ、あの、わた、私の――」
混乱のあまり、ここが学校ということも忘れて口調が普段通りになっている。
「もう! ですから、クラスでいじめにあってる娘が万引きしてくるようにいわれて盗んできた物です。
これをどうしたらいいのか京香さんに相談しに来たんですよ」
「お店に事情を話して返しに行けば……」
「そういう常識的な交渉が成立しそうな状況ではないから困っているんです」
鈴華によれば、今日の昼休みに、湯河淳子という女子生徒をいじめているグループが、こんなものを学校に持ってきた変態がいるとクラス内で騒ぎ出したのだという。
そのやり方に鈴華が顔をしかめていると、当麻武明という男子生徒がバイブとローターをグループの女生徒から取り上げ呆れたようにいった。
「いい加減にしろよ。こんなもの持ってきたって騒ぐけど、これを見つけたって事はおまえら淳子のカバンを勝手にのぞいて中にあったものを盗んだって事だろ?」
「なにアンタ?こいつの肩持つ気?バッカじゃない」
「持つと悪いのかよ。おまえらにのせられていじめに加わるよりはましだぜ」
「へー。当麻は泥棒の方がお気に入りってわけ」
キャハハとグループの女が一斉に笑った。
鈴華が更に顔をしかめる。
「そのバイブ、淳子が欲しくってパクッてきたやつなんだよ。いやだよねー。変態って。
わざわざ駅前にある専門の店まで行って盗んでるんだって。そんなコトするぐらいなら自分の服でも売って買えばいいのにねー」
ことさらに大声でいう女を、武明は冷めきった態度で見る。
「よく知ってるな。まるで見てきたみたいだ」
女の声が途切れた。
「おまえらさっきこのバイブを偶然見つけたっていってたな。
ならどうしてこれが盗まれたもので、どこで盗まれたかまで知ってるんだ」
クラス中がしんと静まる。
「そんなの……こいつから聞いて……」
「あなた達に淳子が打ち明けるようなことなんてあるわけないでしょう!」
ついに鈴華が動き出した。
「こんなクズで馬鹿の武明ごときにいわれてうろたえているようなら正直に自分たちがやらせたと認めたほうがよろしくってよ。確かに淳子は見ていて殴りたくなるような馬鹿だけど、堂々と殴ることもできないあなた達だって同類だわ。私なら――」
鈴華が足音を響かせて淳子の前に立ち、そして――教室に頬を叩く音が響き渡った。
「こうするわ。淳子!」
突然殴られた淳子は鈴華の大声に体を硬直させた。
「元々はあなたがおどおどしてなんでも言いなりになっているからこんな事になるのよ。
そんなあなたを見てるとね、私だってこうしたくなるわ」
今度は反対の頬を張りつけた。
さっきまで淳子をいじめていた女生徒達は言葉も出ず呆けたようにこの光景をただ眺めている。
これでは、どちらがいじめているのかわからない。
鈴華は、淳子を面罵しながらその度に叩いた。
淳子は泣きじゃくってごめんなさいと繰り返すばかりである。
教室中、いいようのない気まずさが漂っていた。多人数で、ノリに任せていじめている内はただの見せ物であったが、一人が真剣になってやっているのは見ていても辛い。
しかし、止めようにも自分たちはさっきまでいじめに参加していた側である。それが棘となって誰も鈴華を止められずにいた。
そんな時、武明がバイブを持って騒いでいた生徒に声を掛けた。
「リンは俺がなんとかするから、とりあえずそれをこっちに渡せ」
女はアッサリとバイブを武明に渡した。
「いいか。もうあんな真似をするなよ。おまえらにはただの遊びかも知れないけど、リンはそうは思ってない。こんな事か続いてその度にリンがキレて見ろ。淳子が入院でもして警察が来れば、万引きの件だってばれることになる」
このままこのグループでいじめが続き警察沙汰になったとしても、彼女たちはそれほど気にもしなかっただろう。万引きは淳子が勝手にやったのだと言い張るだろうし、いじめなんか、みんながやっていたことだと他人事のように感じるだけでいいからだ。
だが、鈴華が原因で警察が来るとすれば、と考えた時、自分たちも鈴華と同列にいることが理解できたようである。
女は、やばいよ、やばいよとつぶやくと、少し青白くなった顔を武明に向けて何度も頷いた。
「リン、ちょっと淳子とこっちに行こう」
「な、なにするのよ馬鹿武明。私はまだ淳子のことを許していないわ。腕を離しなさいよ、淳子を殴らせなさい!」
武明は鈴華と淳子の腕を強く掴んだまま教室を出て、隣の使われていない教室へ連れていくと、二人をなだめて落ち着かせ、この問題についてどうするかを考ようといった。
その際、淳子は私がやってしまったから、自分で返しに行くといったのだが、なぜか、武明が止めたほうがいいと強く反対した。
その理由は、淳子には想像もできないものであった。
武明はその店を何度か利用したことがあった。そして、その店の店長の性癖を何となく理解していたのだ。
淳子が行けば、万引きを理由になにをするのかはだいたい想像がつく。
だからこそ、行かせるわけにはいかなかったのだ。
「俺達がなんとかする」
そういって、武明は淳子を教室へ戻した。
二人きりになった鈴華に、武明は事情を打ち明けた。
「店の女性が万引き行為を利用して、女生徒に手を出す可能性があるというわけです」
「暴力をふるうなんて……そんなに危険なお店なの?」
「いえ、そういうことではないのです……」
なんといえばいいのかしら、と、鈴華はつぶやき、
「……その女性は、私くらいの年頃の娘が好みなんです」
「?」
女性が好み、というのが京香にはわからない。
「京香さん、同性愛ってご存じですか?」
「どうせ居合い……?」
「人には色々な好みがあるということです」
「――はい」
京香はわけもわからずうなずいた。
「それで、私が行くのも危ないんです。武明が行くのも危ないらしくて」
「当麻くんも?」
「両刀使いだそうです」
「二刀流? 居合いもそうだし、剣術をやっているの、その方?」
「――そうです」
鈴華もいちいち説明することに疲れたようだ。
「なら、私がそのお店に行って、事情を話してきましょうか」
「それも危ないです。先生の場合は特に」
「?」
鈴華から見て、京香には強いMの気が感じられる。その手の相談は京香の貞操を危うくしかねない。
「私も駄目なら……」
しばらく思案していた京香が、鈴華に、なら、といって表情を明るくした。
「最初から万引きなんて無かったことにすればいいのよ」
内容はこうだ。
京香がその店に入り、バイブのあるコーナーで隠していたバイブを取りだし、元に戻す。ローターも同様にして元に戻せば、万事解決というわけである。
幸いにして、ローターやバイブはむき出しにして売られていたというので、箱が無くてばれてしまうといった心配は無い。
午後七時を過ぎ、通りの人混みも落ち着きだした頃。
京香と鈴華、武明、淳子が、駅前にある雑居ビルの前にいた。
「……ここです」
淳子がか細くいう。
「二条先生、本当に大丈夫ですか?」
「やっぱり俺がいきますよ」
「大丈夫よ。ここは大人に任せて」
京香の声はしっかりしているが、鈴華と武明はものすごく不安そうにしている。
「じゃあ、向かいの喫茶店で待っていて。終わったらいきますから」
言い終わると、京香はそのまま雑居ビルの階段を上がっていった。
実は、京香は不安で今にも潰れそうだった。
話を続けたら止めてしまいそうだから、振り切るように三人から離れたのである。
雑居ビルの三階に、その店はあった。
スゥイートスポットという看板が立ち、解放された扉の向こう側には、京香が見たことの無い世界があった。
当たり前だが、大人のおもちゃだらけである。
店に入った瞬間、立ち眩みで倒れそうになった。裸が至る所にあり、女性器をかたどったおもちゃの隣で学校で見たバイブより更に大きなものがうねっている。見ているだけで、全身の血が集まってきたかのように顔は真っ赤になった。
「こういう店は初めて?」
背後からいきなりいわれて振り向くと、女性が笑みを浮かべて立っていた。
年は京香と同じくらいか。はじけんばかりの大きな胸が、胸元を大きく開けたボディコンシャススーツからその存在感を誇示している。こんな店にどうしてここまでスタイルのいい女性がいるのだろうか。
短めのスーツからのぞかせる足はほとんど全てがむき出しである。白く、滑らかそうな肌。太股からつま先まで、造形に一部の狂いもないように思える。
ほとんど化粧をしていない顔。しかし、手入れは入念に施され、かすかな香水の香りが、彼女の存在感をさらに引き立たせている。少し肉厚の唇、柳枝のようにしなやかな眉に、濡れた光をたたえた瞳。顔は京香から見ても美人だと思う。だが、なんといえばいいのか、たとえようもない感覚を覚えた。
「あら、可愛い――」
女性の細い指が京香のあごを撫でた。
京香の背筋に悪寒が走る。
「おもちゃを使うくらいなら、私が可愛がってあげるけど。どう?」
「え、遠慮しておきます」
「そう、残念」
言葉とは裏腹に、女性は楽しげだ。
「ゆっくり見ていってね。ああ、それと、気が変わったらいつでもいらっしゃい」
たっぷりいかせてあげるから、といって女性はレジのほうへ歩いていった。
女性がなにをいっているのかよくわからなかったが、こちらを見ていない今がチャンスだと思った。
バイブとローターは近い場所に置かれている。
ケリーバッグからバイブとローターを取りだした。
それを、棚に戻そうとする。
人の気配を感じた。
誰かが、自分を見ているような感覚が京香を襲う。
不安に駆られ、レジの方を見る。女性は後ろを向いていたが、顔をこちらへ向けると、笑いかけてきた。
会釈を返して今度は入り口の方を見る。
誰もいない。京香の視線の届く所には、人の姿は認められなかった。
よくよく観察してみると、入り口からは京香の動きが全て見えてしまう。全く意識していなかったが、見ている人間がいたとすれば危ないところであった。
ほっと息を吐いたその時。
バイブを持つ手を、そっと押さえられた。
脇には、いつの間にか女性が立っていた。
「ねえ、このバイブとローター――」
「あ、あの、これは」
突然のことに全身から血の気が引き、目の前が真っ白になった。まさか見つかるとは思ってもいなかった。
こうなってしまっては、どうにか事情を話して理解してもらうしかないと思った。
「実はこれには――」
「初心者にはあまりお勧めできないわ」
「え?」
まるで想像外の女性の言葉だった。
「あなた、雑誌なんかを読んで欲しくなったでしょ?」
「は、はい」
京香は相手にあわせてみた。
女性はやっぱり、と肩をすくめて、
「駄目よ。いきなりこんなに大きいのを入れたら裂けたりして大変よ」
「避ける?」
「細いものを入れて段々慣らしていくのよ」
「均すのですか?」
「そうよ。それとローションも必須よ。それにしても――」
女性は妖艶な笑みを浮かべた。
「初めて買うのがアナルバイブなんてね」
「あな……」
「お尻の穴のほうが感じるの?」
「と、とんでもないです!」
「じゃあ前のほう?」
「まえ?」
「ここよ」
女性はそういって京香の秘処を服の上からそっと撫でた。
「きゃっ!」
「あら、敏感ね。これじゃあバイブなんかいらないんじゃない?」
京香の頭は今にもパニックを起こしそうだ。
「それとも、慣れてないから彼に鍛えるようにいわれたの?」
「は、はい、そうなんです」
理由をつけなければ彼女が離れてくれないと思った。
「私、彼に操をたてたいのであの、あまり触れて欲しくないんです」
「ふふふ、本当に可愛い」
女性は手を離した。京香はほっとする。
「あなたが欲しいのは普通のバイブなのね。それなら、私が選んであげるわ」
そうね、といって女性は棚を見渡し、いくつかのバイブを手に取る。
「まずは――」
女性がバイブについて説明を始めた。京香にはまるで異国の言葉を聞かされているような気分であった。
時々相槌を打って相手に同意しなければ、またさっきのように触られるのだろうと思い、そうです、はい、と返事だけはした。
十分ほど経っただろうか。
「じゃあ、この三つからどれを選んでみる?」
そういわれて、どうやら買わなければならないようだと知った。
目の前にはバイブとローターが示されている。
女性は微笑んでいる。
京香の他に店内に客はいない。
断れる雰囲気は微塵も無い。
「あの、じゃあ、全部頂いていきます」
京香の言葉に、女性は破顔一笑した。
「あら、意外と凄いわね」
全部試してみたいなんて、と女性は感心している。
「お話を伺っていると、だんだん買ってみたいと思えてきたんです」
適当に誤魔化してみたつもりであったが、女性のほうはどう受け取ったのか、ますます嬉しそうだ。
「いいわね、あなた。情熱もあるし、素質もあるわ」
「え?」
「ねえ……もし彼じゃ物足りなくなったら、いつでも私の所にいらっしゃい。楽しませてあげるから」
彼女の手が京香の方へ伸びてきた。またどこか触られるのではと身構えた京香の前に、一枚の名刺が差し出される。
「咲間マヤ」
名前の横には手書きで携帯電話の番号が書かれていた。
マヤは名刺を京香のケリーバッグの中へ落とした。
「いつでもここに電話して頂戴。会いたくなったらここに来てもいいわよ。セックスの相談ならなんでも教えてあげるわ」
楽しそうにマヤは笑った。
鈴華達の席に京香が姿を見せたのは店に入ってから三十分ほど経った頃であった。
「どうでしたか、二条先生」
「大丈夫だったわ。湯河さん、もう安心していいわよ」
「あ、ありがとうございます」
淳子は何度もお辞儀を繰り返した。
そんな敦子の肩を軽く叩いて、京香ははげますように優しく微笑んだ。
「湯河さん、またこんな事があったら、今度はすぐに私の所に来て。わたしができる限りのことはするから」
「せんせい――」
淳子はぽろぽろと涙をこぼして泣いた。
淳子が帰っていった。
三人は帰る方向が同じというので、ゆっくりと道を歩いている。
空には満月が一つ、都会のネオンに消されることなく輝いていた。
「ねえ、当麻くん」
「はい?」
「もし、湯河さんがまたいじめられるようなことがあったら、助けてもらえるかしら」
「それは淳子の態度次第じゃないかしら。でも、武明は馬鹿でクズだけど理由もなく人を追いつめるような真似はしないから心配しなくてもよろしいですわ、二条先生」
鈴華が代わりに答えた。
「安喜宮さん、言葉が過ぎますよ。当麻くんに謝りなさい」
「あら、本当のことをいっただけです。謝る理由がありませんわ」
鈴華がどうしてこんな態度をとるのか。京香には不思議でしようが無い。
武明が黙っているのは、大して気にしていないからだろうか。
京香の住むマンションの前に着いた。
鈴華の自宅までは距離があるので彼女を送ろうとしたが、
「武明がタクシー乗り場まで送ってくれるそうですから、大丈夫ですわ」
と、断られた。それに、武明なら心配することはないと思い、ここで別れることにした。
「じゃあ、明日の予習範囲をしっかり勉強してね」
一応教師らしい言葉を掛ける。
二人の影が遠くなっていく。
「――せん、……ごし……ま……」
風に乗って鈴華の声が届いた。武明に謝っているようである。
なら、二人きりにしたのは良かったんだな、と京香は頷いた。
空を見上げてみる。
玲瓏とした満月だけが空にかわらず輝いている。
星は、一つも見えない。
一つきりで輝く月は孤独なのだろうか。ふとそんなことを思う。
しかし、そんなつれづれなる想いは、すぐに別の重大な問題に押し流されてしまう。
(あ……バイブを……どうしよう……)
全く考えていなかった。
自分で使うなんて、とてもできない。
人に見せたり渡したりするわけにもいかない。
鈴華に相談すれば、きっと呆れられ、結局なにも解決していないじゃないですか、とたしなめられるだろう。
捨てるわけにはいかないのだろうか。
急に恥ずかしくなってきた。
帰って考えようと、部屋へと急ぐ。
鈴華の過ごす夜は、まだ続きそうである。